忠犬ハチ公/飼い主への愛情物語。海外映画化。渋谷の銅像=シンボル♬動画あり

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忠犬ハチ公/飼い主への愛情物語。海外映画化。渋谷の銅像=シンボル♬動画あり

忠犬ハチ公とは

渋谷で待ち合わせといえばココ!

渋谷の待ち合わせスポットといえば忠犬ハチ公銅像前。この場所で待ち合わせをする人を見ない日はないと言っても過言ではないであろう。ある統計によると渋谷駅の1日平均乗降客者数は約2,420,000人であるというから、ハチ公前が常時待ち合わせの人でごった返すのも無理はない。私は渋谷で待ち合わせする時、必ずハチ公前を指定する。見慣れた景色に溶けこんでいるものの、実話の物語を思い出すと、やはり見る度、感慨深くなる。

忠犬ハチ公の物語

ハチと上野英三郎の出会い

ハチはメスの純秋田犬で、1924年から愛犬家で東京帝国大学農学部教授の上野英三郎宅で飼われた。ハチの名は上野が付けたものである。上野宅にはハチの他にも2匹の犬を飼っており、ハチを含めた3匹は毎朝上野を玄関先や庭で見送り、夕方には最寄の渋谷駅で上野の帰りを待つこともあった。

上野の死

ハチが上野宅に来てから約1年後の1925年5月21日、上野は農学部教授会会議の後に脳溢血で倒れて急死する。上野の死から3日間、ハチは与えられた餌を食べることはなかった。その後上野の妻・八重はハチを手放し、ハチは八重の親類や友人たちの下を転々とするが、1927年上野宅に出入りしていた植木職人の小林菊三郎宅に引き取られる。

ハチと上野の絆

小林宅で愛育されたにも拘らず、ハチは上野の帰宅時間になると渋谷駅へ出向いて上野の帰りを待った。その際、上野邸に立ち寄ってガラス戸越しに家の中に上野の姿がないか確認するのも欠かさなかったという。ハチはしばしば虐待や悪戯の標的となったが、1935年にハチが死ぬまでハチは小林宅と渋谷駅を往復し続けた。

忠犬ハチ公の見どころ

由緒正しい秋田県だったハチ

ハチは、1923年11月秋田県大館市大子内の斎藤義一宅で父・大子内号と母・胡麻号との間に生まれた純秋田県である。当時としては珍しくハチの生誕に関する詳しい記述が残っていることからも分かるように、ハチは『家柄のいい』犬であった。また、上野はハチを当時の30円(現代価格で約15,500円)で購入している。

ハチの生前に銅像を設置

ハチは1935年3月8日に息を引き取ったとされるが、渋谷駅前の忠犬ハチ公像の除幕式が行われたのは1934年4月21日、つまりハチの死の約1年前にあたる。これは、ハチ公像の制作中にハチ公像製作のための資金集めと称して絵葉書を販売し始めた老人が現れ、この老人の詐欺行為を阻止するために銅像の製作が急がれたためである。

元祖たれ耳犬?!

ハチの晩年を写した写真や銅像でハチの左耳が垂れているのは、野犬に噛み付かれた際の後遺症である。しかし、亡き主の帰りを渋谷駅で待ち続けるハチに感銘を受けた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉を筆頭に多数の周辺住民により、後にハチを保護し暖かく見守ろうという呼びかけが流布した。

現存のハチ公像は第2号

初代忠犬ハチ公像は大戦中の1944年10月、金属供出として撤去・供出された。その際は、ハチ公像に日本国旗の襷を掛けて「出陣式」が行われた。ハチ公像が実際に溶解されたのは終戦を迎える前日、1945年8月14日であった。当時の鉄道省浜松工機部で溶解された像は、機関車の部品となって東海道線を走ることになった。

終戦後の1948年8月に新たなハチ公像は再建された。当時連合国軍の占領下にあった日本だが、忠犬ハチ公の物語は大戦前から外国にも紹介されており、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の愛犬家有志も再建に携わったとされる。第2ハチ公像の除幕式には、GHQの代表も参列した。

ハチ公アクセス

住所渋谷駅の玄関口
最寄り駅渋谷駅
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