松本城/周辺観光とソバ好き城主が愛した国宝城郭。漆黒に染まる五重六階の天守〜国宝〜※アクセス

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松本城/周辺観光とソバ好き城主が愛した国宝城郭。漆黒に染まる五重六階の天守〜国宝〜※アクセス

松本城とは

お城好きになったきっかけ

松本城の大天守は全部で5棟から構成された連結式の天守。その内部の階段は段差も高くはまるでハシゴのよう。冒険好きな子供が興味を覚えるにはうってつけであり、松本城の天守に入って城の魅力にハマった!という人も少なくない。

激動の戦国時代に生まれた城

天守とは…

現存する天守で複合連結式天守群と言えば国宝松本城。北アルプスに映える漆黒の天守は絵画のように美しく、威風堂々の佇まい。信濃国守護の小笠原清宗は1459年に林城を築城し現在の松本市一帯を治めていた。1504年には林城の支城として深志城を築城する。これが後の松本城の始まりとされる。甲斐の武田氏が信濃侵攻を始めると、これまで林城や深志城を治めていた小笠原氏は追放されて林城は破棄、深志城を拠点とし1582年の滅亡まで武田氏が松本盆地を支配下に置く。

武田氏滅亡後の深志城は次々に主が変わり、再び小笠原氏が奪還、その後深志城は松本城と名称を改める。短い間に城主が変わった松本城だが、現在の姿を作り上げたのが石川数正と息子康長。親子2代に渡る大改築を行うことで松本城を優れた城に作り上げていった。装飾は控えめでシンプルな造りとなっており、白漆喰の壁と黒漆塗りの板張り、唐破風や華頭窓が松本城天守群のデザイン性を高めており、城マニアの中でも人気が高い。

男性的な城の代表格

姫路城が美しい白で女性的であるとするならば、漆黒の松本城は男性的な城の代表格。松本城は見た目だけでなく軍事的にも優れている。これは松本城を築いた武将がもともと徳川家康の家臣でありながら豊臣秀吉に寝返った石川数正で、徳川家康の軍事的な機密を知り尽くしている人物であったからであると言われる。

石川親子のこだわりの城

寝返った石川数正をすぐには信用できなかった豊臣秀吉は松本城の築城を命じ忠誠を試した。そして完成したのが松本城だが、志半ばで数正は亡くなり、その意志は息子の康正が引き継ぐことになる。実戦向きの内部の構造や外観へのこだわりは、徳川を知りつくした石川親子ならではのものであり、こだわりを城のあちこちで確認できる。

突然の裏切り!?

松本城を現在の姿にした石川数正は1533年に三河国、現在の愛知県豊川市周辺で生まれる。今川義元の人質であった頃から徳川家康に仕えており、今川義元が桶狭間の戦いで没すると家康の長男と正室を取り戻すための交渉を、家康と織田信長の関係が悪化すると織田家との交渉を行うなど、徳川家康の手足となり活躍する。数正の父、康正は三河一向一揆で家康を裏切ったと言われているが、数正は変わらず家康に尽くし続けた。

石川数正と松本城が大きく関わることになるきっかけは、豊臣秀吉との出会いにある。織田信長亡き後台頭となっていた豊臣秀吉と徳川家康との間に入り交渉役を務めることになる。1584年の小牧・長久手の戦いでは敵対していた秀吉と家康の和睦を提言したのが数正であったとも言われている。

父が裏切っても決して自分は家康を裏切ることなく仕えてきた数正が、1585年に突然家康の元を去り秀吉側へ逃亡する。なぜ豊臣家の家臣に寝返ったかということは現在においてもはっきりとしたことはわかっておらず、1590年に秀吉から松本城を与えられる。松本は江戸の家康包囲網のひとつ。松本城を優れた城にすることは、数正にとって秀吉に忠誠心をアピールする手段だったのかもしれない。

再び徳川側へついた石川氏

石川数正が1592年に亡くなると、松本城の改築は息子・石川康長に引き継がれる。数正の死後100,000石あった数正の遺領のうち80,000石を引き継ぎ、残りはふたりの弟に分割して相続された。康長の引き継いだ80,000石で松本城の改築・整備を行うのは無理があり、工事に携わった人夫は大変な苦労を強いられたと伝えられている。特に有名な話として伝えられるものに、太鼓門に据えるための「玄蕃石」の運搬作業では大変な重労働で難航したという。不満を訴えた人夫がいたということを耳にした康長は自らその人夫の首を刎ねた上に、刎ねた首を槍に刺して人夫を脅し強引に巨石を運ばせたと言い伝えられている。松本城は質実剛健な完全なる戦闘仕様の優れた城だが、完成の陰には名もなき労働者の血のにじむような苦労があった。

その後石川康長は、関ヶ原の戦いで一度父が裏切った徳川家康率いる東軍に味方する。石川家は数正の父から3代に渡り裏切や寝返りで家康を翻弄してきた。これには家康も面白くはなかっただろう。後に大久保長安事件に関わった罪で弟らとともに流罪となり、1642年12月、89歳の生涯を閉じる。

松本城の見どころ

完璧な戦闘仕様の城

日本で唯一の複合連結式の天守群と言われる松本城だが、5重6階の大天守をはじめ、3重4階の乾小天守、辰巳付櫓と月見櫓、渡櫓の5つの棟はすべて国宝に指定されている。余計な装飾は少なめ。

全体的にシンプルな作りとなっており、関ヶ原の戦い以降の築城ラッシュ時に築かれた城とは異なり万一城が攻められることになってもしっかりと応戦することができるような戦闘仕様の作りとなっているのが特徴。一方、天守内部は無骨な作り。戦国時代の城らしく、美しく豪華に見せることよりも戦いに勝つことを最優先に考えられた城であるということがわかる。

矢狭間が60、鉄砲狭間は全部で55、狭い間隔で設置された石落としが11と、攻撃力はもちろん防御力にも優れた城となっている。特に矢狭間と鉄砲狭間は並べて配置するなど細部にまで徹底したこだわりが見える。唯一の欠点である地盤の緩さをカバーするために石垣を水はけのよい野面積にして、石垣の低さは石落としでカバーするなど攻守ともに完璧なものとした。

松本城の内部は工夫がたくさん

戦闘仕様で作られた天守の内部がどうなっているのか。1階は食料や弾薬などが保管される倉庫のような役割を果たしており、周囲には50センチほど低めに作られた武者走りが外壁に沿って巡らされている。3階には一切窓がないのが特徴で、作戦部屋として使われたそうだ。外からは存在がわからないため「秘密の部屋」と呼ばれることも多い。4階は城主が過ごすために設けられた書院造りの部屋となっており、5階は重臣たちが集まり重要な話し合いをしたことが見て取れる。最上階は展望台の役割も持っており、今は入側となっている部分が廻縁となっていた形跡も残っている。

実は松本城に限らず、天守には軍事的に必要がなかったという説もある。しかし復元された各地の城を見るとほとんどに天守はある。戦国期に作られた城には天守がなかったとされ、城主の力を誇示するために作られたという説が有力。防御面において天守の存在は却って不利になり、関ヶ原の戦い後の築城ブームが過ぎ去った後には天守のない城や焼失しても再建されなかったものもある。

松本城の天守は豊臣のシンボルカラーとも言える「黒」が全面に出ていることから「烏城」などと呼ばれることもある。城を包み込む黒い塗料は墨であると考えられていたが、1950年に解体修理をおこなったところ黒漆塗りをした形跡が見つかった。

かつて戦いの象徴であった松本城。今は役割を終えて平和な世の中を見守るという新たな役割を持っている。

日本一急な階段としても有名

勢いで上った子供が、あまりにも急であるため降りられなくなって泣き出すことも多いのが松本城天守の階段。7つある階段のうち4階に設けられた階段は、日本で一番急な階段としても知られており、その勾配は61度。1分1秒でも敵の侵入を遅らせたいという思いがこの不自然なまでの勾配を作り上げた。

各階の役割にも注目したい

松本城の特徴として挙げられるものに、各階の役割がとてもわかりやすいということがあります。特に3階と4階は大きく異なり、3階が真っ暗なのに対して4階は異常に明るく感じられる。これは3階が外側からは見えない「隠し階」となっている武士の集合場所、4階は城主の座る場所であったことから、明るく格式の高い作りになっていることがわかる。そんな違いを見比べてみるのも松本城を楽しむ要素。

城めぐりオススメ

近年、城めぐりが人気となるなど注目される機会も多くなってきた日本の城郭だが、城めぐりの初心者や外国人観光客にお勧めしたい。城の外観自体がひとつの芸術作品のようで、中に入って感じる不思議さや当時のこだわりなどが数多くあるのも特徴。徳川家康と豊臣秀吉が争っていた時代を象徴すると言っても過言ではないお城であるため、城めぐりのビギナーにはぜひ訪れてもらいたい。

美しさを楽しむ平和な時代も

戦闘に備えて作られた天守とは全く違うが特徴なのが月見櫓と辰巳櫓。ふたつの櫓は1633年に松平直政によって増築されたもので、月見櫓は月を眺めるために作られた戦いとは全く異なる目的で作られた。三方の舞良戸は外すことが可能で開放的な空間が広がるようになっている。廻縁が朱色に彩られ天井が船形となるなど、装飾が最小限に留められた天守とは全く異なる。月見櫓には水門の後も残されており、月見倉から直接小舟で水堀に出た可能性も高く戦のない太平の世で四季の風情を楽しみ、船着場から二の丸に上がってお茶などを楽しんだとも言われている。

松本城と壮絶なエピソード

「加助の怨念」で傾いた城!?

水野忠直が城主を務めていた1686年、松本では穀物が例年に比べて不作であった。しかし松本藩は年貢を増やすことを決め、農民にとっては大変な増税となった。百姓の窮状を知った庄屋の加助は減税を求めるため10名の同志とともに策を練ると、計画は藩内に広まり訴状を提出する日になって10,000人ともいう百姓が松本城に集まることとなる。この騒動は後に「貞享騒動」と呼ばれる百姓一揆として歴史に名を残す。

一揆の当日は藩主水野忠直は不在であったが、城代家老は事態を重く見て百姓の要求をのむという回答を言い渡して騒ぎを収束させ翌日には減免することを書面にする。しかし藩主にこのことを知らせると減免は反故にされ、逆に首謀者を捕え極刑を言い渡す。処刑される者の中には、中心人物の16歳の娘や、1歳にも満たない赤ん坊の名前もあったと言う。

処刑される直前に加助は松本城の天守を睨み

「必ず思いを遂げる!」

と絶叫して果てたというがその瞬間に地震が起き、天守がぐらりと西に傾いたという。松本城の天守は明治期末頃まで傾き続け、人々は加助の怨念によるものだと噂したという言い伝えが残されている。明治期に撮影された松本城の写真でははっきりと天守の傾きが確認できる。

取り壊しの危機を乗り越えて

1873年に出された廃城令に基づき、松本城は廃城処分となり取り壊しの危機を迎える。多くの城が陸軍の管轄となり軍用地となる中松本城は競売にかけられ解体を待つ身となる。しかし解体されることを憂いた地元の有力者が松本城を買戻し、解体の危機を回避することができた。ところが1800年代末になると、天守は徐々に傾き始め誰が見ても傾いて建っているということがはっきりとわかるようになる。ここでまことしやかに囁かれたのが前述の「加助の怨念」であるが、実際には弱い地盤に建てられた城の土台が建物の重みで沈んでしまったからであった。傾いた天守を何とか元の状態に戻すことができないかということで、旧制松本中学の校長らが立ち上がり「天守保存会」を設立、1903年から約10年をかけて天守の傾きを直す「明治の大修理」が行われた。解体の危機を何度も乗り越えなければ松本城が国宝として現在まで美しい姿を見せることはなかっただろう。

明治期に揺れ動いた松本城

1871年に行われた廃藩置県後に松本城一帯は一時期「筑摩県」とされ、これまで現在の岐阜県の一部と合併し松本城の二の丸に県庁が置かれていた。実はこのころの日本は政治的に安定しておらず合併や分割などが短期間で繰り返し行われたことも多かった。筑摩県は旧長野県と合併するかしないかということで紛争問題が勃発していたが、二の丸が不審火によって火災を起こして焼け落ちると、跡地には松本地方裁判所が置かれた。

現在松本地方裁判所が松本城の北側に移転し、建物が移築されたことで更地となり二の丸を復元しようという声も上がっている。二の丸の復元よりも先に行われたのが三の丸の周囲にあった堀である。松本城の外堀は明治期に埋め立てられてしまい水路跡など一部を残すのみとなっていたが、松本市は外堀の復元をめざし、用地の買収に乗り出した。貴重な現存天守と周辺遺構の多くが、完全な形で復活を遂げるまではまだまだ時間がかかりそうである。

数少ない現存天守とともに

目指せ!世界遺産登録への道

1500年代初頭に小笠原氏が深志城として築城して以来、武田氏や石川氏、堀田氏、水野氏、松平氏と目まぐるしく城主が入れ替わった松本城。特に戦乱の世で豊臣秀吉と徳川家康の間で揺れ動いた石川数正親子が城主として君臨した時代は激動の時代と言っても過言ではない。戦闘を強く意識した鉄壁の防御と攻撃態勢を整えた城は現在において当時の歴史を知る貴重な資料ともなっている。

現在住宅地となっている外堀の買収を進めているのは、これだけ貴重な財産を残している松本城を世界遺産に登録しようという動きがあるということに関係していると言ってもいいだろう。国宝4城のひとつである姫路城はすでに世界遺産に登録され、彦根城も国内暫定リストに掲載されるなど世界遺産登録への意識は高まる一方と言える。現存天守では唯一の複合連結式天守とシンプルかつスタイリッシュな外観、さらに複雑な歴史を地域ぐるみで伝えていこうという取り組みは感動に値する。

各地の城との交流も

2015年6月、島根県松江市にある松江城が国宝に指定される見通しとなったことを受けて、松本城黒門入口に祝福の看板を設置したことでも話題となった。遠く離れたふたつの城の歴史を見ると不思議なめぐりあわせが浮かび上がってくる。

1633年から6年の間、松本藩主としてこの地を治めた松平直政は、松本藩主を務めあげた後、松江藩主に転封されることとなる。松本城と松江城では建築技法に共通点があるかもしれないということで、松江城の関係者が松本城を訪れるなど良好な関係が続いている。すでに国宝として名を馳せた「国宝の先輩」であり、ふたつの城の縁を多くの人に感じてもらいたいという取り組みである。世界遺産登録では彦根城や犬山城とともにお互いを高め合う姿勢を見せ、それぞれに良好な関係と交流を持つ取り組みが活発に行われている。いずれも激動の時代を乗り越えて現在に至る現存天守を持つ城。今後もそれぞれの城の良さを活かしながらお互いにいい刺激をしあっていくだろう。

たとえすぐに世界遺産に登録されなくとも、我々日本人にとっては残していかなければならない貴重な遺産であることは間違いない。

松本城アクセス

観光と散策♬

松本城へ行くにはJR松本駅から徒歩で15分ほど歩く必要がある。しばらく歩くと芸術作品のような天守閣が見えてきて、周囲の自然とのコントラストが楽しめる。桜や紅葉の時期には美しさに磨きがかかり、多くの観光客で賑わっている。

周辺スポット

三の丸付近の大名通りには、お城好きでなくても思わず二度見してしまう古書店が目に入るだろう。本に興味がなくても内部がどうなっているのか気になるという人も。また旧開智学校や四柱神社といった時代の流れと歴史を感じずにはいられない場所も近くにあるので足をのばして欲しい。

松本城住所、入場料金

住所長野県松本市丸の内4-1
電話番号0263-32-2902
バス停松本城・市役所前
最寄り駅JR松本駅
駐車場あり・有料
休日年末年始
営業時間8時30分~17時 ※ゴールデンウィークや夏休みには延長あり
料金一般610円 小中学生300円 小学生未満無料
トイレあり
アクセスJR篠ノ井線松本駅より徒歩15分 「松本城・市役所前」バス停より徒歩すぐ
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