硫黄島の戦いとは…/生き残り不可能の状況下、栗林中将が下した命令…太平洋戦争最大の激戦

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硫黄島の戦いとは…/生き残り不可能の状況下、栗林中将が下した命令…太平洋戦争最大の激戦

硫黄島の戦いとは

日米ともに多大な被害を出した激戦後

―生きて再び祖国の地を踏むことなきものと覚悟せよ―栗林忠道中将が戦況を悟り、決死の作戦であることを部隊へ伝えた。太平洋戦争末期、日本の敗色がいよいよ濃くなるとこれまで日本軍が占領していた島々は奪還され、アメリカ軍は本土攻撃に向けて着々と準備を進めていた。当初アメリカ軍は本土攻撃のためには台湾を攻略することを視野に入れていたが、効果的な戦略爆撃を行うなら硫黄島を攻略すべきという意見が出たことから、硫黄島への攻撃が決定、1945年2月19日、アメリカ海兵隊の硫黄島への進撃を開始した。

攻撃が開始されてアメリカ軍が日本軍を制圧するまでに36日を要した。当初の計画では5日間で島内全域に潜んでいる日本兵を殲滅する予定で15,000名の死傷者数は覚悟の上と公表していた。実際には想定を遥かに上回る時間と死傷者を出すことになった。ノルマンディ上陸作戦の戦傷死者数を3日で上回りアメリカ軍にとっても最激戦地であったことがわかる。数字上での人的損害ではアメリカ軍のほうが多く、戦争末期の状態では珍しいケースであった。

静かな島に起きた悲劇の爪痕

東京都に属する硫黄島村には6つの集落があり、1,000人余りの島民が硫黄の採掘やサトウキビ栽培、漁業などで生計を立てながら静かに暮らしていた。孤島でありながら経済状態は良好であった。数千万年前に起きた噴火によって堆積したものが隆起してできた島であり、現在も火山活動によって少しずつ地表が隆起している。島のあちこちから火山ガスが噴出しており、島名の由来になった硫黄の匂いが立ち込める。太平洋戦争以降、一般人の立ち入りは制限されており、海上自衛隊と航空自衛隊の基地関係者と、慰霊のために訪れる人以外は上陸ができなくなっている。

日本人兵士の戦死者は21,000人余り、現在までに遺骨が回収できているのは約8,000柱。残りの約13,000柱は埋葬地が特定されていないことや不発弾が多く残されていること、有毒な火山ガスの影響で収容が困難な状態にある。一方、アメリカ軍の戦死者は摺鉢山の麓に棺に入れて手厚く埋葬されていた。このため戦死者全員の遺体はアメリカ本土に帰還し、故郷の地で眠っている。

5日で陥落すると言われた硫黄島部隊の奮闘

2月16日、アメリカ軍の硫黄島派遣部隊は偵察によって入念に調査された陣地に砲撃を開始する。しかし予想以上に攻略に時間がかかる。元々アメリカ軍が硫黄島を攻撃するということは日本軍も想定していた。総攻撃が行われる以前に、兵士は堅い岩盤に穴を掘り、要塞化することで戦闘を長引かせ本土への総攻撃までの時間稼ぎをするつもりであった。気温、湿度が高く、真水のない島での重労働に加えて、本土からの物資は日に日に届かなくなる。総攻撃を前に病気で命を落とす兵士も少なくなかった。島内の要塞化が進む一方で、硫黄島に着任した栗林忠道中将はサイパンやペリリュー島で行った水際での防御を中心とする戦術よりも、内陸での持久抵抗を行い、敵の消耗を強いる作戦を採用する。

アメリカ軍が射撃の準備をしている状態では、位置の特定を防ぐために発砲を控えること、敵が上陸して500m進んだら集中攻撃を加えること、可能な限りの損害を与えたら北方へ移動するといった決まりごとが盛り込まれていた。栗林の立てた作戦に意義を唱えた者も多かったものの陣地防御やゲリラ戦術にこだわり長期の持久戦を徹底させた。当時、栗林の戦術が採用されていなければ、日本は今とは違った歴史を歩んでいたかもしれない。

硫黄島の激戦

すり替えられた日章旗

攻撃開始の2月16日、日本軍はアメリカ軍からの攻撃により摺鉢山の戦力を失った。これによりアメリカ軍は短期間での硫黄島攻略を確信。島嶼作戦で日本軍が行ってきた万歳攻撃や夜襲に備えて準備をしていたが、これには応じず手りゅう弾による攻撃と夜間発砲という嫌がらせ攻撃を敢行。しかし、アメリカ軍の警戒が強くなると効果は薄くなり日本兵の死傷者数も次第に増えていった。この作戦は海軍兵や所属部隊が全滅した兵士の役割となっていく。

島への上陸に成功したアメリカ軍は摺鉢山へ向けて前進。トーチカには手りゅう弾と火炎放射器で、どちらも1m進むごとに戦闘が起こる状態であった。

そして待ち受ける要塞化した山にアメリカ軍兵士は大苦戦を強いられる。23日には何とか山の頂上に到達し、拾った鉄パイプに星条旗を縛り付けて掲揚した。国旗を掲げた兵士の映る写真はピューリッツァー賞を受賞するなど話題となり、後にこの詳細は映画「父親たちの星条旗」で取り上げられる。

ところが星条旗が掲げられた翌日、山頂には日章旗が掲げられていた。近くに生き残って戦闘を続けていた日本兵がいたことを意味しており、アメリカ兵は近くにあった穴や壕に手あたり次第、手りゅう弾や火炎放射器を打ち込むと、翌日以降日章旗が掲げられることは二度となかった。

最強の兵士も限界に達す

元山周辺の戦いでもアメリカ軍は苦戦していた。歩兵戦闘の専門家・千田貞季陸軍少将が寄せ集めで練度の低い兵士を徹底的に訓練し強兵に生まれ変わらせていたことが原因のひとつだった。山の正面の守りは徹底しており、アメリカ軍に恐れられた。しかし最強部隊にも限界は訪れ中央突破に成功したアメリカ軍は日本軍の兵力を北と東に分断することに成功する。

真水の乏しい硫黄島で日本兵は飲用水不足に苦しみ、真水を求めて夜陣地を抜け出した兵士の多くは生きては戻らなかった。武器弾薬や食料飲料、すべてがなくなった状態で兵力は分断。もはやこれまでと感じた栗林中将は硫黄島着任以来自分を支え続けた池田益雄大佐に軍旗の奉焼を命じ、3月16日夕方、ついに大本営へ訣別電報を送る。

訣別電報から最後の激闘へ

16日の訣別電報の送信以来、出撃の機会を得ぬまま移動を続け、市丸利之助海軍少将とわずかな海軍兵士と合流。この時兵士の中にはロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技で金メダルを獲得した西竹一中佐がいた。アメリカ軍による火炎放射器による攻撃で負傷しながらも戦うことをやめなかったと生き残った兵士が証言している。しかし混乱の中でどのような最期を遂げたかは分かっておらず、一説によると19日~21日ごろに自決したとも言われている。

3月26日、栗林中将は約400名の生き残り兵士に最後の攻撃を仕掛ける命令を下す。栗林は以前より万歳突撃による攻撃をしないように戒め貫き通した。最後の攻撃は夜襲。攻撃を仕掛けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は整備要員など戦闘に関しては素人が多かったためパニック状態になった。170名を超える死傷者を出した夜襲で栗林中将や市丸少将は戦死する。事実上、硫黄島の戦いが終わりを迎えた。

硫黄島に散った人々

アメリカを知り尽くした男

栗林忠道は1891年に長野県で生を受ける。文才に秀でた学生でありジャーナリストを目指していた。恩師の勧めで陸軍士官学校に入学、そのまま騎兵学校、大学校へと進学し優秀な成績で卒業し恩賜の軍刀を授与される。

1927年にはアメリカ駐在武官として勤務したことで陸軍内では「知米派」として名を馳せる。アメリカの国力や国際情勢に明るかったことからアメリカと敵対することに反対した数少ない人物。

正確な最期については西中佐同様わかっておらず、突撃時に受けた迫撃弾の破片により前線からの撤退を余儀なくされて、退避した洞窟内で自決したと言われているが、階級章や所持品など身元を識別するものの一切を外して最後の攻撃を仕掛けたため、敬意を表して遺体を探していたアメリカ軍でさえも栗林の遺体を見つけることはできなかった。現在も栗林中将の遺骨は見つかっておらず、多くの将兵とともに硫黄島のどこかで眠り続けている。

―余ハ常ニ諸子ノ先頭ニアリ―

大統領への遺書

一方で、将校の遺体が敵兵によって徹底的に調べられることを見越して、時のアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルト宛に手紙をしたためたのが硫黄島での海軍指揮官・市丸利之助である。

1891年に佐賀県で生まれた利之助は1910年に海軍のエリートコース、兵学校へ入学する。海軍が航空機を戦闘に利用し始めた草創期のパイロットであり、1926年の墜落事故で頭や顔面の骨などを折る大怪我を負う。世に出ている市丸の写真で、目のバランスが不自然に異なるのは事故や事故後の度重なる手術の影響によるものである。

市丸の最期も栗林同様詳細はわからず遺体も見つかっていないが、日本語と英語に訳された「ルーズベルトへの手紙」は手紙を託した将校が懐に抱いて突撃したため、市丸の思惑通りアメリカ兵の手によって発見される。まもなくルーズベルトが亡くなったため本人が読むことはなかった。

手紙の内容は、今起きている戦争の原因の一部はアメリカにも責任があること、連合国軍の矛盾を鋭く突くものであった。現在この手紙はアナポリス博物館に保管されている。また市丸が持っていた刀がニュージャージー州の骨董品店で売られていることが判明する。テレビ番組を通じて妻の元へ戻された。

―飛行機がなくとも市丸は戦う、死なばもろともという精神を兵も理解してくれるでしょう―

もう一人のメダリスト

オリンピックメダリストの壮絶な戦死で、西中佐と同じくロサンゼルスオリンピックで競泳男子100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾選手も硫黄島で戦った1人である。

1932年8月6日、オリンピックの決勝レースに立った河石は惜しくも日本の宮崎康二選手に敗れて銀メダルに終わるが、オリンピックタイ記録という輝かしい成績を残す。国内予選で成績が振るわなかったため代表発表の場におらず、ラジオのニュースで自分の名前を聞いて慌てて駆け付けたというエピソードもある。

五輪後に海軍兵学校での水泳教師として勤務した後、召集されて陸軍に入隊し5年の軍隊生活を送る。1944年に再度召集命令が来ると、陸軍中尉として硫黄島に着任する。

河石は栗林が送信した訣別電報の翌日17日付で戦死の公報が出されて大尉に昇進するが、戦後に寄せられた証言をまとめたところ3月26日の時点では生きていたとみるのが自然で、4月上旬までは地下陣地内に留まっていたとも考えられる。証言というよりは伝聞によるもので、河石の正確な戦死時期と場所は現在も不明のままである。

「硫黄島で戦死したメダリスト」として河石の名が語られることはほとんどないが、オリンピックの表彰台で見せたさわやかな笑顔は記録という形で永遠に残される。

激戦地・硫黄島のいま

硫黄島の現在

現在、硫黄島には海上自衛隊の硫黄島航空基地隊と航空自衛隊硫黄島分屯基地があり陸海空すべての自衛隊員が常駐し業務に当たっている。海上自衛隊は航空管制及び基地の施設管理など、航空自衛隊は航空自衛隊は訓練機の飛行統制や後方支援、陸上自衛隊は島に今なお残されている不発弾の処理を行うために人員が配置されている。行政上は東京都小笠原村という住所ではあるものの、一般の住民は住んでいない。

原則として勤務する自衛隊員と建設業関係者以外は島への立ち入りは禁止されており、太平洋戦争の激戦地として慰霊祭が開催される時に強制的に疎開させられた旧島民や戦没者の遺族以外は上陸が許可されていない。映画「硫黄島からの手紙」の撮影も一部硫黄島内で撮影されたが、通常の許可とは異なり、アメリカ経由で東京都へ許可を取ったものであった。

40年後の再会

アメリカ海兵隊が第二次世界大戦で授与した名誉勲章のうち4分の1以上が硫黄島上陸部隊に与えられ、アメリカ国旗が掲げられた日は長く海兵隊の記念日と制定。1985年、日米双方の生き残った400人の軍人たちによる合同慰霊祭が硫黄島で行われ、かつて敵同士だった者たちは互いに歩み寄り、固く抱き合った。今も島では、戦死者たちの遺骨収集が行われている。

なお、この穴を掘って自在に防御と攻撃を行う戦法は、のちに日本軍がベトコンと呼ばれたベトナム解放軍に教え、ベトナム戦争でのアメリカの敗北につながったとされている。

硫黄島が伝えたかったこと

アメリカ軍と日本軍両方の視点から硫黄島の戦いを描いた映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」は当初それぞれの国の監督がメガホンを取る予定だったが、資料を集めていた段階でクリント・イーストウッド監督が兵士の気持ちは敵対していても同じであるということを感じ自ら両作品のメガホンを取った。

「アメリカ人監督が作った日本映画」という奇妙な図式は、映画の細かい部分に不自然な点も多かったが、日本人が見ても納得できる内容であると高く評価する声が多かった。視点の異なる2本の映画が世に出たことで、日本のメディアでは特集やドキュメンタリー、関連ドラマなどを次々と発表。「硫黄島ブーム」が起こる。

「硫黄島からの手紙」かつての敵国であるアメリカでの評価も高いもので、ハリウッド映画でありながら全編日本語という異例の作品は多くの賞を受賞。双方ともに多くの犠牲を出した硫黄島の戦いは、アメリカ軍の勝利という形で幕を閉じたがどちらにも大きな傷を残す結果となった。軍人である前に、誰かの父親であり息子であった。硫黄島で戦ったひとりひとりにストーリーがあったことを伝え続ける島なのかもしれない。

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