回天特別攻撃隊/「生きて還ったからと言って冷たい目で見ないで下さい!」100%死ぬ悲劇の作戦…

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回天特別攻撃隊/「生きて還ったからと言って冷たい目で見ないで下さい!」100%死ぬ悲劇の作戦…

回天特別攻撃隊(回天)とは

人間が乗りこむ魚雷〜戦局の悪化を打開するために誕生〜

太平洋戦争末期、窮地に追い込まれた日本を、家族を守るために自らの体を兵器の一部として捧げた若者たちがいた。死ぬかもしれないが生きて帰る可能性がある出撃とは違う。目のある兵器として自分の命と引き換えに多くの敵を倒すこと、それが「特攻」という特別な作戦。

ミッドウェー海戦での敗北を転機に戦局は悪化の一途をたどる。航空機や特殊兵器が体当たり兵器として採用され、自らの命と引き換えに10,000人以上の若者が散っていった。特殊兵器のひとつとして数えられるのが「回天」。魚雷の中に人が乗り込み頭部に詰まった爆薬もろとも敵艦に体当たりする兵器である。

運命のふたりが出会って動きだす歯車

戦艦や潜水艦から発射される魚雷は、一度発射されればほぼ直進するためタイミングや障害物によっては目標にたどり着けないこともある。しかし魚雷自体が自由に位置を移動し、目標を追跡することができたらどうだろうか。

当時海軍には驚異的な性能を持つ「九三式魚雷」が大量の在庫として残されていた。九三式魚雷は酸素を原動力として利用していることから、航跡を残さず敵に発見されにくい特徴を持っていた。しかし敵がレーダーの活用をすることで利点は活かされなくなり、日本海軍が得意としていた艦隊決戦よりも航空機による戦いが主流となったことも重なって、九三式魚雷は何百本も眠っていた。

呉軍港に隣接する倉橋島には魚雷の実験施設があり、すでに在庫として眠る九三式魚雷を何とか使うことができないかと、「人間魚雷」の基となる構想を仲間とともに練っていた海軍機関学校出身の黒木博司中尉がいた。そんな中、海軍兵学校を卒業し潜水学校の過程を終了後に実験施設に赴任したのが仁科関夫少尉だった。

戦局を打開するためなにか良い方法はないかと模索していた仁科は、偶然にも黒木と同室となり寝食を共にするようになる。九三式魚雷の大量在庫と黒木、仁科の運命的な出会い。こうして回天特別攻撃隊の大きな歯車はついに動き出した。

黒木博司と仁科関夫

黒木博司は岐阜県益田郡下呂村(現在の下呂市)の街医者の息子として生まれた。幼いころから成績優秀で、大変な努力家であったという。岐阜中学を卒業すると海軍機関学校へ進学し、卒業と同時に戦艦「山城」に着任する。海軍機関学校は機関技術や整備技術を学ぶ学校だが、潜水学校へ進むと最初から甲標的の艇長になることを熱望していた。一方、仁科関夫は滋賀県大津市の教育者の家庭に生まれる。小さな頃から成績は優秀で大阪天王寺中学を4年で修了すると難関だった海軍兵学校へ入学する。

回天を語る上で欠かすことのできないふたりの倉橋島での運命的な出会い。海軍は創設以来「必死」となる作戦や兵器の採用を認めてはいなかったが、ふたりの熱意と戦局の悪化もあり、当初は脱出装置を付けることが条件となり許可が下りた。しかし仁科は「脱出装置はつけても構わないが、自分が出撃する際には基地に置いていく」と言い放つ。結局、脱出装置がないまま有人試験航走を実施、1944年8月1日に正式に兵器として誕生する。

黒木は「天を回らし戦局を逆転」という意味で自ら「回天」と名付けた。

基地の開設と不慮の事故

「日本を救いたい」集まる少年たち

回天が兵器として正式に認められるまでの間から搭乗員の募集は始まっており1944年7月初旬には募集を開始。終戦までに回天の搭乗員要員として選抜されたのは、兵学校・機関学校出身者121名、予備学生・生徒210名、水雷科下士官9名、予科練出身者1,035名の合計1,375名である。

ここで注目したいのが予科練出身者が異様に多いということ。予科練は戦闘機に乗るための教育施設で少年たちの憧れの場所でもあった。しかし人は集まっても乗ることのできる戦闘機は少ない。入学から厳しい訓練を受け力のあり余った若者たち。すべての教程が終了するまでには時間があったため白羽の矢が立った。兵器の詳細については極秘であったが、愛国心の強い若者たちの多くが志願する。ほとんどの志願者は戦闘機に似た乗り物であろうという想像をめぐらしたが、実際には戦闘機とは似ても似つかぬ真っ黒な物体を目の当たりにして落胆する者も多かったが、すぐに「コレで日本を救うんだ」という気持ちに切り替わったと多くの予科練出身の隊員が証言している。

考案者の殉職

1944年9月1日、正式に「回天」の訓練基地として徳山湾の大津島基地が開設、いよいよ本格的な訓練が開始される。実際に訓練が始まったのは9月5日のことだが、6日の訓練時に事故が発生。黒木と樋口孝大尉同乗の訓練用回天が行方不明となる。

9月6日は天候もよかったが波が高く、仁科は訓練の中止を進言していたが黒木は訓練を続行。ほどなくして海底に着底すると操縦不能となり酸素が失われ、翌朝ふたりは遺体となって発見される。「回天」の考案者の殉職で隊内には衝撃が走る。

海底に着底してから絶命までの12時間、黒木は薄れゆく意識の中で懸命に事故の詳細や事故後に行った処置、実戦に活かすための対策を書き綴っていた。読み進めていくと内容は次第に死を決意したものになり、仁科をはじめとする回天隊への遺言へと変わっていく。回天の内壁にも遺言を書き綴り、朦朧とする意識や手足がしびれる中ふたりは君が代を斉唱し事故発生から12時間後、ついに息絶える。

仁科の鬼気迫る雰囲気に士気は高まる

「目のある魚雷」といえば簡単に目標へたどり着けるように思いがちだが、実際には水面すれすれの場所で、潜水艦よりもはるかに小さい特眼鏡を使って観測し目標艦までの距離や大きさ、などを計測しながら突入する。しかもひとつ順番を間違えれば重大な事故につながる複雑な装置を操らなければならない。

黒木・樋口両大尉の殉職によって隊の士気の低下が懸念された。実際に隊内は放心状態となる。しかし黒木と仁科は日頃から訓練の段階でどちらかは必ず死ぬことになるだろう、もしかするとどちらも死ぬことになるかもしれないということを常に話していたという。仁科はこの出来事に耐え、自らが先頭に立って見事に隊をショックから立ち直らせた。

回天特別攻撃隊という兵器

仁科中尉、黒木少佐の遺骨とともに

ついにその日はやってきた。

1944年11月8日9時。3隻の潜水艦にそれぞれ4基の回天を搭載し、12名の若者たちが大津島基地から出撃していった。

出撃した潜水艦はイ号36・37・47潜水艦の3隻で、菊水隊と命名された。12名の搭乗員はすべて士官から構成され、出撃搭乗員の中には黒木少佐(殉職後昇進)の遺骨を胸に抱いた仁科関夫の姿もあった。自分たちの作り上げてきた回天に真っ先に乗って征く、という言葉を黒木とともに実現させた。

仁科が乗りこんだのはイ号47潜水艦。11月19日に目的地付近に到着した潜水艦は敵の船団を発見し、4基の回天では足りないと肩を叩いて歓喜し、突入時刻を翌朝早い時間と決める。死へのカウントダウンが始まった。

いよいよ突入という時間になり、4人はそれぞれの回天へと姿を消す。1号艇に発進準備の連絡を艦長が行うと、仁科の元気な声が電話越しに聞こえてくる。艦長の「発進!」の合図に対し「後を頼みます!出発します」という言葉を残して仁科は黒木とともに発進していった。

5基の回天が発進

回天特別攻撃隊の先陣・菊水隊の戦果は、イ47潜水艦で仁科中尉以下3名全員が発進、4つの爆発音を確認した。同じくウルシー泊地で敵を求めていたイ36潜水艦も1基の回天を発進させた。ウルシー泊地にいた潜水艦から発進した回天のひとつが、輸送艦「ミシシネワ」を撃沈したということが確認されている。

残るイ37潜水艦の運命についても触れておかなければならない。イ37潜水艦はパラオ諸島のコッソル水道へ向かうが、アメリカ軍に発見され駆逐艦の執拗な攻撃に遭い、数時間の激闘の末大爆発を起こす。4基の回天が発進した形跡はなく、4名の若き搭乗員は潜水艦とともに壮烈な最期を遂げたと推測される。

3名の魂の叫び

菊水隊の活躍の裏で涙を流した男たちがいた。イ36潜水艦に乗りこんだ搭乗員のうちの3人だ。3基の回天はいずれも不具合などで潜水艦を離れることができずやむなく帰還したのだが、4人のうちのひとりが本懐を遂げているため基地へ帰還したあと再度の出撃を申し出る。回天隊の指揮官であった板倉少佐は発進できずに帰投した搭乗員は後輩の指導に当たらせたいと考えており再出撃を認めるつもりはなかった。しかし3人はさらに上の司令官であった長井少将に再出撃を直訴。無理に拒否すると自決しかねないと判断した長井は願いを聞き入れる。これが前例となり、続く金剛隊以降の出撃では数回出撃を繰り返す搭乗員がいるのが当然という暗黙の了解が生まれる。菊水隊で発進できずに戻った3人は、続く金剛隊で出撃して戦死することになる。

菊水隊に続く金剛隊の出撃では、菊水隊の奇襲攻撃を受けたアメリカ軍が警戒を強化したことで泊地に近づくことが難しくなっていた。金剛隊では6隻の潜水艦にそれぞれ4基の回天を積んで出撃したが1隻は沈没、1隻は目的に近づくことができずに帰投した。泊地攻撃から洋上攻撃への作戦変更を余儀なくされた。

海へ消えた男たちのエピソード

「我々4人の代わりにあの8人を助けて」

金剛隊のイ47潜水艦はドラム缶に乗って漂流している日本の兵士を発見する。収容すべきかどうか悩んでいた艦長に、隊長・川久保輝夫中尉は「我々4人の代わりにあの8人を助けてやってください」と懇願したと言う。数日後には確実に死ぬ者と、奇跡的に助かった者。なんとも数奇な運命である。数日後には不要になる自分たちの衣服や日用品を分けるなど、周囲の者がいたたまれなくなるような光景があった。

実はイ47潜水艦の艦長・折田善次は、川久保中尉とは旧知の仲で、折田と川久保の兄は海軍兵学校の同期という間柄。同期の兄はすでに戦死していたが、川久保家に頻繁に出入りしていた折田は、幼い川久保のことをかわいがっていたという。言葉もしゃべれなかった子供が回天搭乗員として目の前現れ、自分の口から発進命令を出さなければならないという数奇な運命。任務とは言えやりきれない気持ちであっただろう。「ヨチヨチ歩きのテルちゃん」こと川久保輝夫中尉は1945年1月12日ふたつの大きな偶然というエピソードを残し、ホーランディア泊地の船団に向かって発進していった。

「南十字星はどれですか?」

士官のみの選定であった菊水隊とは違い、金剛隊からは下士官も搭乗員として出撃することが決まる。あどけなさの残る2名、森二飛曹と三枝二飛曹。予科練出身の中では最初の出撃ということもあり仲間同士の中でも羨望の的だったという。突入の日が近づいても無邪気に笑いあうふたりの姿をいたたまれない気持ちで見ていた潜水艦乗組員も多かった。森・三枝両二飛曹の乗る回天は一度潜水艦を浮上させてからでないと乗ることができなかったが、1945年1月12日の突入に合わせて、同日未明に乗艇する直前、艦長に向かって「南十字星はどれですか?」と尋ねたという。日本では見ることのできない南十字星を遠く離れた南方で見ることをささやかな楽しみにしていたのだろうか。結局時間が早すぎてふたりは南十字星を見ることなく乗艇、午前3時16分に森艇、24分に三枝艇が発進。ふたりとも18歳の美少年だった。

「生きて帰ったからと言って冷たい目で見ないでください」

1945年6月4日に光基地を出発した轟隊イ36潜水艦に乗りこんだ回天隊員・いわゆる学徒出陣組と言われる兵科4期予備学生出身の久家稔少尉は金剛隊と天武隊、二度に渡って艇の不調によって帰投を余儀なくされた。金剛隊では艇内にガスが発生し失神した状態で収容され帰投、天武隊でも艇の故障で発進することができなかった久家少尉は、発進できずに基地に帰投した者の気持ちを誰よりも強く理解していた。

久家少尉の乗ったイ36潜水艦は敵駆逐艦に発見され爆雷攻撃に遭いながらもかろうじて沈没を免れていた。しかしこの状態で動くことのできる回天は皆無、点検の結果電話は通じないが久家少尉艇ともうひとつの回天は発進可能であることがわかる。艦長は迷ったがふたつの回天を発進させることを決断し、久家少尉は最後の言葉を残すことなくハンマーの合図で発進していく。回天が爆発すると爆雷攻撃も次第に弱まり駆逐艦は遠ざかる。久家少尉は潜水艦を救ったのである。主を失ったベッドには日記が残されていた。

「艇の故障で、また3人が帰ります。みんな2度目3度目の帰還です。生きて帰ったからと言って、冷たい目で見ないでください。先にゆく私には、このことだけがただ一つの心配ごとなのです。」

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