神風特別攻撃隊/戦死者が綴った遺書…戦果と海外の反応を70年後に伝える※画像、動画あり

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神風特別攻撃隊/戦死者が綴った遺書…戦果と海外の反応を70年後に伝える※画像、動画あり

神風特攻隊とは

KAMIKAZEはなぜ生まれた?

「特攻」…長い日本の歴史の中において、たった70年前という最近の出来事の中で実際に行われていた信じがたい出来事。太平洋戦争末期、日本の敗色が濃くなると日本軍は特攻作戦という戦法を編み出し、実際に実用化させる。特に有名な特攻作戦が、戦闘機に爆弾を取り付けたまま戦艦や空母などに体当たりをするというもの。

「特攻」は「特別攻撃」を略したもので、日本陸海軍の軍令部や一部の将校の中では比較的早い段階から構想があったと言われている。

「カミカゼ」は世界中の歴史の教科書にも登場するほど有名な言葉。当時日本には陸軍と海軍で軍隊が構成されており、各々に戦闘機を扱う部隊が存在し、特別攻撃隊を編制。「神風特別攻撃隊」は海軍に属する特別攻撃隊とされた。

特別攻撃隊ができるまで

海軍中将・大西瀧治郎のもとには敵の艦船を確実に航行不能にするためには航空機による体当たり攻撃しかないと言う声が多く届いていた。大西自身その必要性は感じていたものの時期が早いと考えていた。しかしマリアナ沖海戦で敗北すると、体当たり攻撃を行う以外空母を確実に撃沈することはできないという声がさらに多くなり、大西に対して、特攻を申し出る声が押し寄せる。大西自身すでに時が来ていることを感じており、特攻以外に日本が生き残る道はないと周囲にも語っていたと言われている。海軍が腹を決めれば必ず陸軍も続くはず。さまざまな苦悩と葛藤の間を揺れ動き、海軍初となる特別攻撃隊の編成が決まった。

戦争を終わらせるための犠牲

一説によると特攻を行う理由のひとつに戦争を終わらせる目的があったとも言われている。パイロットの命が航空機もろとも吹き飛ぶような戦いをすれば、天皇陛下が戦争を終わらせるだろうという目論見もあった。しかし結果的には初めての特攻が成功した際に、天皇は悲しい表情を見せ、ここまでしなければならないといけないのかという言葉を発したとされるが、戦争をやめるとは言わず、「よくやった」と軍令部総長に伝えたという。結果的に天皇自身が「戦争をやめよう」という言葉を発することはなかった。つまり、天皇は戦争をやめることを望んではいないというように受け止められ、特攻作戦の成功に際して激励の言葉を賜ったと受け止めざるを得なくなってしまった。

神風特別攻撃隊の誕生

特攻第1号・関行男

いざ特攻を正式な作戦として採用することとなり具体的な作戦が立てられるようになる。空母を撃沈、もしくは1週間程度航行不能な状態にするためには当時世界最速と言われた零戦に250キロ爆弾を搭載してそのまま突っ込むのが確実な方法であると結論付け、第1号となる攻撃隊の指揮官、すなわち体当たりするパイロット達の隊長を海軍兵学校出身者から選定するように進言、そこで選ばれたのが愛媛県出身の海軍でも優秀なパイロットとして知られた関行男大尉であった。関大尉が特攻を持ちかけられた際、その場で「私にやらせてください」と言い切ったと伝えられていたが、実際には「一晩考える時間が欲しい」と答えたという秘話が1984年に公表された。その場で即決したとすれば軍人の鏡、男気あふれるように思えるが、実際には目の前の突きつけられた現実を受け止め、決心するだけの時間を求めたことにむしろ人間らしささえ感じる。人間として当然の心理である。関大尉には結婚したばかりの妻がいた。この世に最愛の家族を残して死んでいく気持ちは計り知れない。関大尉は出撃の前に新聞記者にこう語っている。

「最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、素晴らしいだろう?」

神風特別攻撃隊=4つの編隊

関大尉以下の隊員は事前に予科練出身の下士官から同意を取り付け4つの隊が編成される。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜」

本居宣長の詠んだ和歌である。この和歌にちなみ「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」という4つの隊が作られた。神風特別攻撃隊の誕生である。「神風特別攻撃隊」という名称は、猪口力平中佐によってつけられたもので、郷里にある道場「神風(しんぷう)流」から取り「神風を吹かせなければならない」という気持ちをこめて決められた。

いよいよ訪れた出撃の日

1944年10月21日。4つの隊に属する24機が出撃し、23機が悪天候などに阻まれ帰還する。未帰還となったのは大和隊隊長・久納好孚中尉。法政大学出身の23歳で最初の出撃で唯一未帰還となり、同日にオーストラリア海軍の重巡洋艦に損害を与えた可能性があるとして「特攻第1号」と言われることもある。出撃前に自分が一番機ではないことを悔しがり、初日の出撃で何があっても戻る気持ちがないことなどを周囲に漏らしていたという記録も残っている。関大尉と久能中尉でどちらが第1号か?などと議論されることもあるようだが、若く尊い命が失われたことに変わりない。

海に消えたエリート学生

パイロットは軍人の中でもとりわけ優秀なエリートが選ばれる。神風特攻隊に選ばれたのは、多くは「学徒動員」と呼ばれた、大学生を徴兵するシステムによって徴兵された優秀な若者たちだった。もし、彼らが生き残っていたら、第二次大戦後の日本を指導する政治家、経営者、学者、技術者など輝かしい未来が待っていただろう…

ついに出撃!特攻作戦の始まりとその後

大戦果を上げた5回目の出撃

10月21日の初出撃から、出撃しても帰投するという死を決した隊員にとっては地獄のような日々が続き、出撃メンバーに入れ替わりがあるなど、最初の出撃から5回目となる25日、敷島隊以下7つの隊が出撃し、ついに敷島隊の5名が大きな戦果を上げる。レイテ湾で4隻の空母群を発見した敷島隊は激しい対空砲火の中、それぞれの目標に向かって急降下し体当たりを敢行する。アメリカ軍側の記録によると、護衛空母「セント・ロー」を撃沈し、そのほか3隻の護衛空母にも損害を与える。同じく出撃した菊水隊も2隻の空母に体当たりを成功させ、損害を与えるという戦果を上げる。攻撃が成功したということは、その時点で若い命がひとつ失われたことになる。これまで戦闘による成果の報告は「爆弾名中」や「魚雷名中」という華々しいものであったが特攻の成果報告は「○機命中」というもの。これまで耳にすることがなかった異様な響きが終戦まで当たり前のように使われることになるのである。

「神風」は海軍の特攻隊

戦争を知らない世代がほとんどを占めるようになり、特攻についての正しい知識も失われつつある。戦闘機が何かに突っ込むこと自体が「神風」などと言われることもあれば、ニューヨークで起きた同時多発テロなども「カミカゼ」と表現されることもある。

これらは果たして同じくくりにしてもいいのだろうか?

「神風特別攻撃隊」とは旧日本海軍の特別攻撃隊の名称であり、陸軍の特別攻撃隊は「万朶隊」「富嶽隊」「振武隊」などが有名。「万朶隊」は出撃命令を受ける直前にアメリカ軍の攻撃を受け将校全員が戦死、11月7日に陸軍最初の特別攻撃隊として「富嶽隊」の出撃が決まる。しかし「富嶽隊」は目標となる艦船を見つけることができず帰投、12日に再び「万朶隊」に出撃命令が下る。「万朶隊」の3機は目標船団を発見し、それぞれの目標へと突入していった。日本側とアメリカ側の記録に相違があるため正確なことはわかっていないが、いずれにしても陸軍最初の特攻作戦では大きな成果を上げたと言っていいだろう。

彼らは国を、故郷を、家族を守るためと信じて、決死のフライトに飛び立った。彼らは家族に最期の手紙を残し、恐怖に震えることもなく、穏やかな笑顔で手を振って飛び立っていった。陸軍特別攻撃隊の主な出撃基地となったのが、鹿児島県の知覧町。

回天特別攻撃隊〜もう一つの特攻隊〜

戦闘機による空からの攻撃だけでなく、海中からの魚雷による特攻攻撃も行われた。小さな潜水艇の頭部に爆弾を詰め、兵士が操作して、敵の軍艦の船腹に突撃するという作戦。神風特攻隊と同様、多くの優秀な若者の命が失われた…。しかも100%死ぬ悲劇の作戦とされた。。。

回天特別攻撃隊とは??→こちら

目標に近づくことが次第に困難となる

陸海軍それぞれの特攻隊は当初華々しい戦果を上げ、本懐を遂げることができたケースが多いが、次々に襲いかかる「ジャップの自殺機」に対してアメリカ軍も当然対策を立て、空母にたどり着くことは難しくなっていた。さらに相次ぐ優秀なパイロットが特攻戦死したことで、日本のパイロットは圧倒的に訓練時間の少ない予備学生や予科練出身の下士官に頼らざるを得なくなる。残存機も次第に少なくなり終戦間際には練習機、通称「赤トンボ」までが駆り出されるようになる。多くの優秀なパイロットを育てた練習機が、教え子の後を追うように特攻出撃をしていくことになる。

志願という名の命令だった!?

特攻は志願ではない?

自らの命を犠牲にして敵艦に突っ込む特攻作戦。今の世の中であれば希望する人は皆無だろう。死ぬために生まれたわけではない、当然の反応だ。当時特攻作戦に参加するのは「志願」であったと言うのが建前となっている。しかし証言の中には命令であったという声もあれば、志願せざるを得ない状況だったというものもある。

軍隊という場所に身を置くと時に自分の意思が通らないこともあっただろう。死にたくないという人間の本能と死ななければならないという気持ちの狭間で、若者たちがどのように自分を納得させて遠い海に消えたのか。想像を絶する葛藤があったことだろう。

特攻を拒否したパイロット

軍隊に身を置きながら「特攻」という作戦を毅然として拒否したパイロットがいたということは意外に知られていない。1944年11月に出撃して戦死したと伝えられた特攻隊員が実は生きていた。敵艦船を発見すると高度800メートル付近で爆弾を投下、そのままミンダナオ島へ帰還した。彼には死ぬまで何度でも出撃し爆弾を投下するのがパイロットの役目であるという信念があった。しかし一方で彼の所属する陸軍では、戦死したと天皇に報告した特攻隊員が実は生きていた、となると天皇に嘘の報告をしたことになり、軍の責任ということになり都合が悪い。

つまりこの隊員に生きていられると困るわけである。そのため彼には幾度となく出撃命令が下る。確実な戦果を上げるために死んでこいというものではなく、なんでもいいから死んで来い、願わくば敵艦とともに。これが軍としての本音だったのかもしれない。しかし何度出撃命令が下っても、爆弾を投下後帰還するということを繰り返し、信念を曲げることはなかった。戦友が次々と特攻で命を落とす中で、信念を曲げなかった彼の心理はもしかすると特攻戦死していった者たちよりも壮絶だったかもしれない。彼はこうして生きて終戦を迎えたのである。

70年の時を超え考えておきたい真実

「特攻の父」が果たした約束

日本陸海軍が航空のすべてを投げ打つかのように出撃し続けた特攻作戦。海軍の関大尉が特攻作戦を成功させたのが1944年10月25日。では最後の日は?1945年8月15日の終戦まで続けられたというのが正式な記録にも残されている。しかし多くの戦友を失いながら出撃する日を待ち望んでいた隊員もいた。軍の命令とは関係なく15日以降に飛び立ったまま戻らなかったという隊員がいたことも数例確認されている。

「特攻の父」と呼ばれた大西瀧治郎についてふれておかなければならない。元々特攻作戦の先陣を自ら切るつもりでいたという大西が、多くの特攻隊員を見送り終戦を迎えてじっとしているわけがない。8月16日に渋谷区の官舎において遺書をしたため、午前2時頃に腹を十字に切って自決。複数の遺書の中には死んだ特攻隊員やその遺族に対し、自分が自ら命を絶つことで謝罪する旨の内容であった。腹を十字に切ったほか、頸や胸を刺したがしばらくは息があり、大西割腹の報を聞いて駆け付けた部下や軍医に、救命しないように言ったという。苦しみながら一生を終えることで、多くの若者を死に追いやった罪滅ぼしをしたかったのだろうか。「後から必ず征く」と出撃していった隊員たちとの約束を守った数少ない司令官のひとり。

生き残った隊員の苦悩

特攻隊員として出撃の日を待つ間に終戦を迎えた隊員も多く、生き残った彼らや戦死した隊員の遺族の戦後は死んでいった隊員よりも壮絶だったかもしれない。戦時中は「軍神」と神のように崇められた特攻隊員やその遺族は、終戦後しばらくすると白い目で見られることも多かった。特に生き残り隊員は、そのような扱いよりも自分だけが生き残ってしまったという負い目から、運命を死ぬまで背負って生きていかなければならないことのほうが辛かったかもしれない。

当時のことを証言することがあっても、戦死した仲間に「わかったようなことを言うな」と言われているような気がしてならないという声も多い。生き残った隊員たちの多くは、先に天国へと旅立った仲間への罪滅ぼしのために、戦後の復興や戦死者慰霊のための事業に尽力した人も多くいた。一方で特攻隊員の遺族や生き残り隊員からの報復におびえながら一生を終えた参謀もいる。

特攻と自爆テロ

同時多発テロや自爆テロに対して「カミカゼのようだ」と報道する国もあった。これに対して憤りを感じる人も多かったことだろう。確かに他の国から見れば線引きが難しいというのが実際のところかもしれないが、決定的な違いを挙げるとすれば、特攻は「軍事標的と敵兵」に対するものであり、テロは「罪のない一般人を標的」とする卑怯なものであるということ。特攻という作戦が70年前に起きていた事実であるということを忘れず語り継いでいかなければならないのが日本人としての使命なのかもしれない。

 

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